森のサーカス小屋

児童文学作家 戸森しるこのブログです。

ある紳士の思いやりから始まった物語

ある日、私は落ち込んでいた。
大切な人からもらった、バラの花の形をしたコサージュを落としてしまったのだ。
茶色の布でできたバラの飾りで、今は離ればなれになってしまったその人と、お揃いの品だった。

落ち込んだ気持ちで、その日の夜、近所の喫茶店でご飯を食べた。
そのころ、その喫茶店は夜の営業がまだ始まったばかりで、客はほとんど全員が顔見知りだった。
Hさんは、おそらく六十代と思われる物静かな雰囲気の男性で、スーツを来ていることが多かった。勤め先が近所にあるのだ。住んでいる場所は知らない。どこか遠くの街かもしれない。

「Hさんは、折り紙名人なんだよ」
ある日の夜、マスターが教えてくれた。
「折り紙名人?」
ピンとこない私。折り紙は子どもの遊びだと思っていた。

すると、おもむろに折り紙を取り出したHさん。黙々と何かを作っている。
しばらくして、それを私のテーブルに持ってきてくれた。
美しいオレンジのバラの花。
「どうぞ、差し上げます」

バラのコサージュを落とした日に、
折り紙のバラをもらった。
そんな話はしていなかったのに。
嬉しい気持ちでいっぱいになった。

なんて素敵な出来事だろう。
いつか物語にしたいと思った。


Hさんとはそう頻繁に会うわけではなかったけれど、バレンタインデーにお返しのつもりでチョコレートを差し上げた(ついでにマスターにもあげた)。


しばらくした日の夜、Hさんが大きな花束を抱えてやってきた。
今日で定年退職とのことだった。

それがHさんを見かけた最後の時。
職場に来なくなったから、きっとこの街に来る用事もない。これから先も会うことはないだろう。

それから五年ほどが経った。私は今でもその喫茶店に出入りしている。たまにマスターとHさんのことを話す。

「覚えてますか?」
「Hさんでしょ。もちろん覚えてるよ」
「あの時の折り紙のバラをヒントに、物語を書きました」
「へぇぇ。タイトルは?」
「『理科準備室のヴィーナス』っていうんです」


あの時のバラは、ホコリをかぶらないように透明のケースに入れて、今も大切に枕元に飾っている。

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